ランボーの名が文学界に初めて紹介されたのは、彼が詩を捨て10年経った1884年であった。彼は既にアデンに暮らし、アビシニア(エチオピア)との商業取引に生活の糧を得ていた。「他所に行くよりは、アデンにいたほうがマシだ」。骨肉腫で右脚切断後、37歳で死亡。

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