1393年にオスマン帝国支配がはじまるが、500年もの間、リラ僧院だけはモスクに改造されずにすんだ。ブルガリア語の使用を含めブルガリア独自の教育とブルガリア正教信仰を許されたそうである。これはまず、僧院の立地条件、アクセスの悪さゆえかと。なにせ遠すぎる!奥深い山の中、目が届かない距離感に「・・・管理は無理!」とオスマンは思ったに違いない。また僧院は歴代の皇帝や貴族からの寄進で広大な土地を所有していたようだ。そこからの収益を考えると、僧院をつぶすよりは定期的に税金を納めさせる事が得策、かわりに僧院の自治権を認めてやってもいいか・・・・・こうしてリラ僧院に「ブルガリア」が残ったのだ。ブルガリア人がリラ僧院に特別な思いを持つのはそのような経緯から自然な事なのだろう。

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